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「しまね和牛」の歴史
古くから「たたら製鉄」の主要産地だった出雲地方の山間部では、輸送手段として多数の牛馬が不可欠な存在でした。そのため牧畜も盛んでしたが、中国山地が和牛の産地として、全国にその名を馳せるのは、江戸時代の中ごろ以降のことです。
延慶(えんけい)3年(1310)の『国牛十図』では、出雲・石見が、また応安(おうあん)2年(1369)の『駿牛絵図』では、出雲が「良牛の産地」としてあげられています。
江戸時代、松江藩は雌牛を買い上げ、田畑の肥料として牛糞を有効利用する目的で、仁多、大原、飯石、神門など各郡の生産農家に飼育させていました。
昭和30年代に入ると、役用としての需要は激減し、和牛は肉用へと変わりました。その後の改良の成果が実り、第7系糸桜号を代表する優秀な種雄牛が誕生し、「しまね和牛」の名声は全国にとどろき、現在にいたっています。
「しまねの和牛」の生産は、以前は、豊かな自然環境の中で子牛を生ませ、その子牛を売って収入を得る「子とり」が中心で、全国の和牛産地へ繁殖用や肥育用の「もと牛」として供給していました。しかし、近年は、安全でおいしい国産牛肉に対する消費者ニーズに応えるため、県内での肥育が盛んになりました。